昭和52年01月04日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむずかしうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心に修行はつきもの、そういう観念が信心が大変難しいものになるのだと思うですね。信心に修行はつきものだと、だから修行そのものがやはり難しいと言う事になる。今の合楽では同じ修行と言うても自分の心掛け一つでする修行、所謂心行ですから信心は容易いことになります。三年五年の信心ではまだ迷いやすい、本当に神様を確信しての十年。そしたらそこにはもう神様を外そうにも外せない。
喜んで我が心が奉られる様になったらいよいよ信心は容易い。喜んで我が心を祭るという事はどう言う様な事だろう。神様と私共が一体になる瞬間。言うならば天地と私共が一つになる融合するその一時、そういう時が我ながら我が心が祀れる様な心の状態の時ではなかろうかと。言うならば天地の心と私共の心が一つになるいわゆる天地日月の心。ですから合楽の場合本当にその天地日月の心になること肝要と教えられる行き方を身に付けて、限りなく美しうならせて貰おうと精進する。
黙って受けて受けて受け抜かせて頂こうそれが修行だと。なそうと思えば子供でも成せれる様な事をおろそかにしてはならないと。そういう一つの軌道の様なものが出来てくる。その軌道のうえを走らなければやっていけない、ですから楽しいひとつの天地とのリズムが生まれて来る。そこまで行った時初めて信心は容易ものじゃがと言う事になると同時に我が心を祭れれる。そういう信心が十年続いたら我ながら喜んで祭れれると言う事になるのじゃあないでしょうか。
今はもう合楽ではいわゆる最短距離と申しましょうかねを天地と交流出来れる道を説いておる様に思われます。本気で天地日月の心になる修行をさせて頂くなら天地との繋がり交流、そこから言うならリズムが感じられる。そういう信心を私は教祖様は容易と。只ああせねばならんこうせねば成らんと言う様な事ではない。だから簡単だから容易いというのではなくて喜んで我が心が祭れれる様な信心になるから容易いのです。
いわゆる楽しうして有り難うしてと言う事になる。その日その日のおかげを頂けば、おかげを受けて行けば立ち行こうがと。その立ち行き具合というものが思い以上のおかげを頂くという意味ではない。まあ言うならば神様のおかげと言うか、まあお金が無いとかあれが不自由だとかという様なときでも間違いなしに神様はお繰り合わせを下さる。言うならばもう実に有り難いその日暮らしが出来る。私はこれはリズムだと思うですね。それが段々おかげを頂いて大きくなり豊かになって行く事は勿論です。
本当に神様は間違いないなと、例えば今日食べる物がなかっても明日は明日というて神様に今日頂けたことをお礼を申しながら寝すませて頂く所に翌る日は又与えられる働きというものを感じる。だから本当に容易い有り難い。ところがさあ今夜食べるのは有ったけれども明日食べる物がない、さあどうしてこんなに貧乏せんならんだろうかこんな難儀な思いをせんならんだろうかと言うと大変難しい。
けれども神様は生かして下さる働きを確信出来れる日々、それは決して現在の難儀というものから脱却するとか、ならお金でも沢山頂ける様になるとかというのではなくて、その日その日が立ち行けばと仰しゃっている。その日その日のおかげを頂いて行けば立ち行こうがと。金光様の御信心では此の立ち行きと言う事を使いますよね、自分だけの立ち行きが、これが人間関係の場合であっても自他共に立ち行くおかげをと。
これが例えば難しい人間関係が生じておっても、その人間関係の関係の、ある人が皆立ち行く、只自分だけがおかげを頂けば良いと言うのではない、皆が立ち行くおかげをと願う事を教えられる。不思議にあちらも立ち、こちらも立つというおかげが受けられる。してみるとそういう人間関係の、まあ困った様相と言った様なものでも、実は信心の言わばリズムを感じだしたら、楽しい事になって来るように。
間違いのない働きをそこに頂き表して行く事が出ける。その日その日が立ち行く具合というものが心配をしたり不安に思うたり情けなく思うたりして立ち行ったんでは我が心が祭れません。まあ普通で言うなら違いますけれども楽天的な心の状態、神様を信じておるからの心の安らぎ。問題はもうその日暮らしのおかげを頂いておっても、さあ今日まではおかげを頂いたけども。
明日はどげんなるだろうかと不安のない所までやはり信心をさして貰う。何とか成るかと言った様な投げやり的なものではなくてそこを確信しての信心が出来る様になった時に信心は容易い、そこに一つのリズムが生まれてくる。そのリズムに乗った生き方をさせて貰うから信心が楽しい物になって来る、いよいよ有り難い物に成ってくる。果してお互いの信心が本当に。
我ながら喜んで我が心を奉れる様な信心の稽古をしておる人があるだろうか。何時もというわけではない、時折でも天地と何か自分の思う様になった時は有り難いというのでは、天地と交流する時が有り難いのである。そこでもう問題は天地との交流日と光の音律とそういう日と光の音律晃的なね、いわゆるおかげ。本当に容易いようだけれども実際はやはりそこに不安があったり心配があったり致しますけれども。
昨日は久保山先生の十年の式年祭がございました。奏上文が出けとりましたから見せて貰いましたら家族親族が集いてという所がありましたから私が家族親族だけではなくて信心の友がらも一緒に集まってという意味の事を一筆書かせて頂いておったらもうえらい感動した。まあ普通では親戚に家の者だけでお祭りをするんですけれども、久保山先生の場合は特に自分の信心に係わり合いのあった方達が皆見えておりましたから、かえって御親戚よりもその方が多い位だったから。
信心の友がらと十年経った今日でもお互いが変わりなしにおかげを頂いておる。どなたの顔を見ても十年前の久保山先生生存の時から一緒に信心の稽古をした連中ばかりそれぞれにおかげを頂いて立ち行って来ておる。そういう懐かしい人達が集まってお祭りが出来ました、場合には有り難い有り難い時も有るけれども反対に意気消沈と言った様な時もないではないけれども、その信心のいわば友達というものは有り難いものでそこん所を励まし合い共励しあって信心を進めて行く。
そういう意味で信心の友がらが本当に有り難い信心の友達を持っていると言う事は有り難い事だなという風に思わして貰うて、我ながら喜んで我が心を奉る為には様々な要素がいる。神様を確信して疑わない。確かに確信して疑わないのだけれども一寸不安が横切る。あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になると本当の信者じゃと仰るが、不安のある所にいわゆる本当の信心がまだ出来ていないんだと悟らせて貰うて、一段と信心を進めて行く所からそのことのおかげでというおかげが受けられる。
そういう繰り返しをして行くうちにいよいよ安心のおかげ喜びのおかげが受けられる。信心が教祖様が仰る様に本当に容易いものにならなければならん。それにはもう何というても良い信心をさせて貰わなければならない。良い信心の友達を持たなければならない。同時にいよいよ天地と交流する一時が有り難いのであり楽しいのである。ためにいよいよ天地日月の心になること肝要と仰せられる。
そこに本気で取り組ませて頂くと、天の心になろうと努めるとき地の心になろうと努めるとき、天と通い地と交流する、それが何とも言えん信心の味わいになる。そういう信心が十年と続いたら我が心が祭れれる。そこには信心が楽しい有り難い言うならば容易いものという事になるのです。そういう信心がいよいよ豊かに成長して行くおかげを願わせて貰わなければなりません。
今表行が全廃された今日、私は表行をしなければならない信心であるならば、教祖様は容易と言う事は仰らないと思うです。例えば本当に私共過去様々な修行もしましたが、なら寒中に水垢離取ると言う事だけでも普通では出来ないです。やっぱあそれは難しいです。ですからこういう御教えだからでもです、教祖の神様の信心は表行と言った様な難しい信心に修行はつきものだけれども、その修行はどこまでも自分の心次第で出来れる修行、心に掛けさせて頂く修行、火や水の行ではない断食の行じゃないね。
そういう信心からならばこの六十九節のように御理解は頂けないと思うです。だからどうでも金光教の信心の独壇場というのは容易い信心、それでいて楽しい天地との交流が計られるところの信心その一時がいわば妙なるその妙音というか妙なるリズムが生まれて来る。そのリズムに乗った信心、もういよいよ金光教的と言うかいよいよ金光教の独壇場的なこの御理解だと思います。
こういう御理解を頂くところからでも、成る程表行と言う事が全廃になったと言う事が、皆さん合点がいかなければいけません。あぁとてもこの寒中に水被ったりせんならんなら、とても誰でんじゃ出来ん。いやそれは難しいと言う事になりましょう。実をいうたら心行そのものもです、心に掛けていなかったら出けません。心に掛けさせて頂く、重い物持つのじゃない、自分の心次第で有り難く楽しゅう我が心が祭れれる様な、その心で心行をいよいよね。
密かなるものにと言うかね、心行がいよいよ有り難いものになる。喜んで我が心が、本当にこの心行の一番有り難い所は今言う様に例えばんなら自他共に立ち行くという、あの人も立ち行きこの人も立ち行くという様な祈りをする時に自分の心が拝みたい様な心が生まれてこない筈がないです。あげな奴がと普通なら言う所が、そのあげな奴がというところをその祈っておるのですから。
自分の心の中に有り難い事では有るなと。言うならば商売なら商売敵の相手の事を祈れてある自分が有り難い。自分が拝めれる。そういう信心をいよいよ身に付けて行かなければなりません。そういう信心がその日その日続いて行けば必ず立ち行きのおかげを頂く。そこから生まれて来る確信。成る程神様が干乾しになさる様な事は絶対ない、お縋りしておけば、又必要なものならば神様が必ず下さるという、信心の言うならば安心も生まれて来るわけですよね。
どうぞ。